長野県における犂耕のはじまりと松山原造
長野県に牛馬耕の技術が入ってきたのは、明治時代になってからである。それまで畜力利用は、運搬と代掻きだけであった。
明治初期にもっとも農法が進んでいたのは北九州地方であった。馬耕・籾の塩水選種・短冊苗代・苗の正条植・雁爪打ちがすでに発達していて、福岡の林遠里は、明治16年に「勧農社」を組織して延べ464名の農業教師を全国に派遣している。政府も明治20年代に、このような先進地農法を積極的に奨励した。この「勧農社」社員が馬耕に使う犂として教えたのが抱持立犂(カカエモッタテスキ)である。抱持立犂を使うことにより均一に深耕がなされ、これだけで米の収穫量が増したともいわれている。
明治25年、長野県勧業課は「勧農社」社員原田勝三郎を米作改良試験教手として雇い、模範田をつくり指導にあたらせた。また、各郡には試作田を選定し、原田勝三郎はそれを巡回しつつ農民に実習指導した。長野県における抱持立犂の普及の始まりは、原田勝三郎の指導によるものである。
明治27年、長野県小県郡では「勧農社」から古川列一を招聘し福岡農法を郡下の農家にひろめることとなった。小県郡の試作田として、松山原造の寄寓していた小県郡和村(現 東御市)田中新太郎の田地220坪があてられたことから、原造は最新の農業技術を率先して学んだ。明治29年には古川列一農事教手とともに郡下を回り、明治30年4月には農事教手の助手、明治31年4月には農事助教手に昇格し、新農法を郡下の農家に指導して歩いたのである。